昭蓮寺Day's2

南無妙法蓮華経

 

最近、四季が無くなった、という人がいます。

人の心に季節が無くなったのでしょうか。天候の不順もそうですが、一番の原因は、人間が自然と共に生きていなことでしょう。先日、まだ、緑色をした稲穂が膨らみ始めた秋の田んぼで、息子と鰌(どじょう)と田螺(たにし)を捕まえて遊んでいました。そこに初老の男性が物珍しそうに、「何をとってるんですか?」と話しかけてきました。鰌と田螺を見せてあげると、「ヘーまだいるんだね~。珍しいね。」とびっくりした様子でした。私は、「僕が子供の頃は、まだ沢山いましたよ。」と言いましたら、「そうだね、薬使うからね。」と、そんな会話を二言三言して立ち去っていきました。

その場所は木曽川から灌漑水路があり、そこから沢山の水が田んぼへと流れ込むその入り口でした。数年前のことですが当時は夏になると飼っていた、ノンという犬が散歩にくる度に、その田んぼの水たまりに飛び込んで、水をガブガブと飲んでいました。それが、あるとき、急な腎不全であっという間に死んでしまいました。

僕はその時、当時の犬の死因を、この田んぼに撒かれた農薬の影響が少なからずあったのではないかと考えたことを思い出しました。

田螺や鰌は、見るからに古代生物の生き残りのような、農薬にも負けない強い生命力を感じます。一方、人間はどうでしょう。

今年6月に公開になった映画に、絶対不可能と言われた無農薬でリンゴ栽培を成功させた、『奇跡のリンゴ』という映画がありました。主人公木村秋則さんは、妻の農薬による体調不良をきっかけに、当時、絶対に不可能と言われた、リンゴの無農薬栽培に挑んだ実話です。主人公の木村さんは、周囲農家に馬鹿にされ孤立していく中、借金はかさみ、娘の靴下に穴が空いていても、それさえ買ってやることができないくらいに、追い込まれ、街に出てアルバイトをしながら10年間を過ごしました。遂に諦め、自殺を決意し真夜中の山にロープを持って入っていきました。そこで、目にしたものは、月明かりに照らされ、実をたわわに実らせた、自生したリンゴの木でした。このリンゴが自らの人生大逆転の糸口となり、ついに無農薬の『奇跡のリンゴ』を実らせたというお話です。

実を付けたリンゴの木も奇跡ですが、木村さんの生き方も奇跡的です。

この木村さんがしみじみと語っておられます。

答えが何もない、参考になるものが何もない。すべてが、試行錯誤して失敗して得た答えなんです。その中で得たものは何であったか。それは、私の体に一個のリンゴも実らないってことがわかったんです。 畑に行ったら私の場合リンゴ畑ですから、リンゴの木が主役なんです。リンゴの木を自分の部下のように考えていた。それは違うんです。

本来一人で生きていく力を持っているはずなのに、肥料や農薬をあげないと、育たないように、本来の生命力が失われています。多量に与えられた、肥料の中から栄養を吸収するのではなく、自然本来の土に存在する栄養を、たとえそれが僅かであったとしても、吸収して、自分んの力に変化させていくこと、本来これができるんです。」

と。

一方、アメリカにモンサントという会社があります。おなじみの枯れ葉剤、ラウンドアップを作った会社です。この会社の、遺伝子組み換えの豆やトウモロコシは、専用の枯れ葉剤には枯れることがなく、更には、一度しか収穫できない様に遺伝子操作がされています。つまり、その年収穫した種を翌年蒔いても芽は出てこないのです。

此の様にして人間の生きていく上での本来の力、生命力を意図的にコントロールして、悪用すれば、兵器にもなりうる「種」を世界中にバラ蒔こうとしている人々もいるのです。

仏教には「仏種」と言うことが説かれますがそれは、本来私たちに具わる、生命力のことかもしれません。

つまり人は、この仏種の芽を開かせることをしなければ、本来の人間の持つ生命力には出会えないということです。そのためには、木村さんが10年もの間、本気でリンゴ本来の生命力を信じた結果の「奇跡のリンゴ」に出会ったように、仏道を求める人々は、誰もが自らの心の中に本来宿っているところの仏性を信じて本気でこれと向き合わなくてはなりません。その為には、仏教の哲学や教理を闇雲に頭に詰め込んでもいけないということであり、道理を弁えずに妄信することを避けねばなりません。

 

譬えば、ここに一つの種があります。何の種かは、わかりません。何の種かはわかりませんが、その行末は既に決められていて、外側から変えることはできません。

リンゴならリンゴ、ミカンならミカンにしか成りません。ミカンの種からリンゴが育つことはありません。

それらは、季節、気温、水、土、光、風、空気、昼と夜などに影響されながら、応分に芽を出し育ち実を結んでいきます。

ここで大事なことは、その種を手にした者が、その種の「性質」をよく分別し上手に育てる努力をするかということです。

お釈迦様はこの「仏種」の育て方の秘訣を『法華経』という教え中に残され、私たちにやさしく、解りやすくお説きになられました。また、『法華経』は「遣使還告(けんしげんごう)・使いを遣わして還って告ぐ」と述べられて、自らの滅後にあっては日蓮聖人という使いの人を遣わして「南無妙法蓮華経」と唱えることこそが、時宜を得た「仏種」の育て方だとお示しになられました。

そもそも、「仏種」とはすべての生きとし生けるものたちに本来具わった生命力そのものです。

 

人の人生は一度きりで、今の自分で生きられるのは後にも先にも今だけです。

すべては試行錯誤であり、そこには多くの失敗が横たわっています。

しかし、自分の内外からやってくるその失敗により新しい自分に出会えたなら、それは私たちの強い生命力を育むに違いありません。

 

JURAN 投稿記事より。

http://jurancop21.net/index.php

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