昭蓮寺Day`s6

井戸端会議6      

 

短い秋が通り過ぎ吐く息の白さに、冬のおと連れを今に感じながら夜空に浮かぶオリオン座を眺めると、超新星爆発が間近に迫るといわれるペテルギウスの揺らめきが一層まぶしく輝きを増した様に感じられます。 夜空に輝く星々の中には、地球にその光が届く頃、既にその存在は無く、光のみが届く星も存在します。それに等しく人の命もその星々の様に生きた証(あかし)を、死後もなお私たちの心の奥底まで届けるものなのかもしれません。

 

先日、ある方から、こんな質問がありました。それは「月参りとはなんですか?」という問いでした。「月参り」とは、おもに東海地方から西の地方に残る毎月、月命日の日にお檀家様のお仏壇に先祖供養のご回向に伺う習慣のことです。その方は、「月参り」と聞いて「お月様を見にでかけること」なのかな?とこんな印象を持たれたそうでした。「月参り」というなんとも面白い表現にすこし想像力をかき立てられた私はこんな事を思いました。

それは、生きとし生ける者たちの命と命とはまるで、互いに月と太陽のような関係であるということでした。

人は人によって照らされ初めてひかり輝くことの出来るものです。それは月が太陽に照らされて光るようなものであり、同時に月を照らす太陽の様な存在である思うのです。私たちはお互いに月であり太陽であるのです。照らし照らされ喜びを感じ生きるのが人だと思うのです。

 

そしてそんな感覚は、生まれながらに具わっているものである事を子供たちから教わったこんな出来事がありました。

 

 ある晴れた日の朝、学芸会の振り替え休日の娘と朝参りをしようと支度をしていると、眠そうな眼をこすりながら、もうすぐ5歳になる息子が起きてきました。休日の姉を恨ましそうに見る姿に、ふと、私の遊び心が動き、「朝のお勤めに参加するなら今日は、幼稚園を休んでもいいが、どうするか自分で決めなさい」と伝えました。彼は嬉々として「おまいりをする」というので、さっそく三人で朝のお勤めをする事になりました。

夏の修養道場で読める様になったお経を自慢げに読む姉をよそに、いつもならお勤め中にふらふらと席を立つ息子もこの日は約束どおり、しっかりと座ってまだ読めないお経本をぱらぱらと捲っておりました。

お自我偈を一巻読み終え、お題目を少々お唱えする頃には、これなら僕も唱えられると嬉しそうにお題目を上げていました。最後に「おじいちゃん、おばあちゃん、お母さん、後ろに座っている二人、そして、生まれたばかりの、双子の妹と弟の健康を願い、二人にちゃんと理解できるよう、やさしい言葉でご回向をしました。鐘を三打打ち鳴らし、振り返ると、いい笑顔の二人が相変わらずちょこんと座っておりました。

 そんな二人に私はこんな質問をしました。「どうでしたか?なんだかすがすがしい、良い気持ちになりましたか?」と訊ねますと、二人とも、う〜んと首をかしげていましたので、すかさず、「きこちゃんとゆうごくん(双子の妹と弟)が元気で大きくなります様に、っておまいりしてどうだった?」と訊ねるました。すると二人はすぐさま、二人は満面の笑みを浮かべ「嬉しかった!」と答えたのでした。私はこの時、ハッとさせられました。何故なら二人は自分の名前も読み上げ祈ってもらった事を知っているはずです。しかし、その事よりも、妹と弟の事を祈ってもらった事を嬉しく思って素直に言葉と表情に表したのです。人は人の為に生きる事が何よりの喜びです、なんて、理屈で説明して理解できる年ではありません。こうして朝早くからおまいりをしている意味も解りません。もちろん私利私欲的な願いなど何もありません。そんな小さな二人が、自分たちの妹や弟のしあわせを祈り願っている事が私には感動であり、喜びでありました。

お題目を唱える事によって人と人が互いに照らし合う、そして、その様なお題目の祈りこそが我が心を磨くのではないかと思うと胸が熱くなりました。

 私たちはこの人間社会の中でお互いに様々な人々と関わり合い、照らし照らされ、祈り祈られ生きています。とは云え、出会う人は常に自分にとって善い人ばかりではありません。起こる出来事も、善い出来事ばかりでありません。それだからこそ、時に新しい自分に出会えたり、磨かれ、成長して光り輝く自分に出会う事も出来るのです。

 

お祖師様は、『種種御振舞御書』に次の様に仰せになられました。

「釈迦如来の御ためには、提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよく成すものは、方人よりも強敵が人をば、よくなしけるなり。(中略)日蓮が仏にならん第一の方人は、景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。」

あ釈迦さまにとっては命を狙った提婆達多こそが、第一の恩人でありました。日蓮聖人にとって自らが仏になる為には、日蓮を殺害しようとした東条景信や良観、道隆、平左衛門尉頼綱こそが第一の味方でありました。

まさに、お祖師様をして真の法華経の行者たらしめたのは彼の強敵に他なりませんでした。

 

法華経には「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」とあります。末法の闇世を照らすその光明は七百五十年の時を経て、今なお人々の心の闇を照らす大慈悲となり法界に生き生きと溢れております。

 

お祖師様が命を惜しまず後の我々の為、良薬としてお残しになられた妙薬を服し、その光に触れて、心の苦しみを忽ちに止どめ、安穏のお浄土に常住する事を願わずにいられません。

 

未だたいした困難や強敵に出会う事すら出来ない徳の薄い凡夫の私が今ここにいます。

これからも、出会う人、起こる出来事、一つ一つに法華経の光明を当て、精進に精進を重ね、お題目様と共に生きることが出来ればこれに過ぎる喜びはありません。

 

日月の 妙の光明涌き出し 

結ぶ寒水 珠となりけり 

 

JURAN.12月号、掲載記事(http://jurancop21.net)(http://jurancop21.net/swfu/d/auto-Qg9vhu.pdf)

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