昭蓮寺Day's7

南無妙法蓮華経

 

今年も昭蓮寺Day`sは、日常の何気ない気づきを綴ります。よろしくお願いします。

 

井戸端会議7

 

 あけましておめでとうございます。本年も井戸端会議をよろしくお願い申し上げます。

 とはいいましても、この原稿を書いているのは年の瀬の心慌ただしい時、相変わらず寝付きの悪い娘を抱きながら片手でのタイピングでしているクリスマスの夜です。

 欧米では、クリスマスはご存知の通り、キリストの誕生を祝う日なでが、実のところはキリストの誕生以前から、昼が最も短く、夜が最も長い冬至の頃を過ぎると太陽が再び高く登る様になるという事から、歴史的には此の季節を祝う風習は世界各地に存在したようです。古代ローマでは、常緑樹を家に飾り、ごちそうを食べて贈り物を贈るというクリスマスの原型と言われる風習があり、現在では、キリスト教がこの古代ローマの祝祭と融合したというのが定説のようです。日本では、おもちゃ等様々な製品を大量生産出来る様になってきた第一次大戦の頃から少しずつ浸透し、1945年、戦後のアメリカ占領下から本格的に普及して今では、すっかり此の国の文化となりました。このクリスマスに関しては賛否両論いろんなご意見はあるようですが、ここでは一つこんなエピソードを紹介したいと思います。

 子供たちにとってクリスマスと言えばサンタクロースですが、私は生まれも育ちもお寺なので、もちろんクリスマスの夜にそっとプレゼントおいていく様な、特別なサンタの存在などはありませんでした。一方、家内の実家には、サンタはいたようで、子供の頃から、年に一回の大イベントだったそうです。12月に入り、クリスマスが近づくと、心の中でどうか今年もサンタが来ます様にと、新聞に挟まるおもちゃ屋の広告を切り抜いては、毎晩寝る前に祈りを捧げ、眠れない夜を過ごしたといいます。そして、翌朝お目当てのおもちゃが枕元においてあるとそれはそれは、有頂天になって喜んだといいます。こうして、小学校3、4年くらいまでは、本当にサンタの存在を信じていたようですが、高学年になるにつれ、その本当のサンタの存在を勘ぐる様になります。とは言っても、巧妙な両親のサンタ作戦に、子供たちが勝てるはずもありません。時には、妹と二人で、必ず此の家のどこかに、今夜のサンタからのプレゼントがあるはずと家中の隠されていそうな場所を探しまわったこともあったそうですが、どこを探しても見つからなかった様です。そんな時は、多分ばぁちゃんちに、隠してあるんだな、といいながらも、その夜は、やっぱりサンタに祈りを捧げるのでした。そんなサンタは中学3年生まで来たそうですが、その頃には、家中を探しまわるなどという事はしません。親がサンタだと分かっているけどそんな事は関係ない、むしろ本当のサンタの存在を但、信じたいと思うまでの境地に達したそうです。ここまでくるとサンタ信仰とまで言えるでしょう。

しかしそんなサンタも、高校生になるとパタリと姿を現さなくなり、その時は一瞬落ち込んだものの、すぐにトイザラスでアルバイトをはじめました。するとそこには、町中のサンタ達が大きなおもちゃを抱えてレジに並び、それに混じって時折、学校の先生も姿もありました。そんなときは、サッとレジの下に隠れ、内線でヘルプを呼んだりし、今度は逆にサンタから身を隠す様になりました。少し余談になりましたが、斯くしてそんな彼女も今では人の子の親になり、立派なサンタになったのでした。

 彼女は言います。あの頃の私は、親がサンタだという事実よりも、信じたいという思いが勝っていた。この気持ちは今生かされている。福島の故郷を離れ、誰も知らない、愛知のお寺に嫁ぎ、右も左も解らない中、夫は娘を一人残し、身延山に言ってしまった。二人ぼっちで暮らしながら、なかなかなじめない土地柄に苦しんだ。そんななか、日々お曼荼羅とお釈迦様にお給仕をしながら、覚えたてのお自我偈とお題目をあげ、いつしか、そんなお釈迦様とお題目や鬼子母神様、法華経のお力を信じたいと思う様になっていたと。

 事実よりも、信じたいという思いが勝る。ここに屁理屈は必要ありません。但、ありがたい気持ちのみが残ります。

お釈迦様「毎自作是念」の誓願は、こうしてあらゆる世法を仏法と識ることのできる、そんな尊い気持ちにさせていただける事ではないでしょうか。

 私たちは常日頃、解ったような振りをしますが、所詮、凡夫の浅知恵です。大切な事は謙虚に、素直に、まじめに、真剣に道を求めようとする、その姿を現していく事です。

 日蓮聖人は、「人久しいといえども、百年には過ぎず、其間の事は、但一睡の夢ぞかし」(『松野殿御返事』)と仰せになられます。惰眠を貪る間にせっかく頂いたお命と法華経に出会えたこの功徳を無駄にはしたくないものです。それは取りも直さず、大信力を起こす事に他なりません。

「夫、仏道に入る根本は信をもて本とす(中略)鈍根第一の須梨槃特は、智慧もなく悟りもなし。只一念の信ありて普明如来と成り給ふ。又迦葉・舎利弗等は無解有信の者なり。仏に授記を蒙りて華光如来・光明如来といはれき。仏説きて云はく『疑ひを生じて信ぜらん者は、即ち当に悪道に堕すべし』等云云。此等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給ひしなり」(『法華題目抄』)

 本年も皆様と俱に、お題目修行に励みたいと思います。

 

三徳の 珠かけ去りぬ 御心を 

覚知せずして 散々 苦労す 

 

JYURAN

http://jurancop21.net/

 

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南無妙法蓮華経

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