昭蓮寺Day's13

南無妙法蓮華経

井戸端会議13

 

先月号では、アメリカ・ネバダ州の砂漠での奇祭、「バーニングマン」の会場に於ける乱数発生器を使った興味深い実験とその結果について少しく触れました。この実験では、確かに、遠くはなれた物質(量子)に人間の意識が何らかの影響を与えるのでは無いかという実験結果を得る事が出来ました。これは、天台大師の説かれた「一念三千の法門」に通ずるものです。今回はその「一念三千の法門」について、浅はかな愚考を巡らしてみたいと思います。

「一念三千」と申しましても、その深々の意義を深く掘り下げ解説する事は、私の様な浅学のものにはあまりにも力の及ばないこところでありますので、ここでは、その「三千」という数字についてのみの解説にとどめたいと思います。

 一念とは、私たちの心に生まれては消えを繰り返す一瞬一瞬の僅かな心の事を指します。その心には、十の世界が存在します。それは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界、声聞、縁覚、菩薩、仏の世界の事です。

 日蓮聖人は、この心を次の様に申されておられます。

「数(しばし)ば他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋り、或時は平(たいらか)に、或時は貪り現じ、或時は癡(おろか)現じ、或時は諂曲(てんごく)なり、瞋(いか)るは地獄・貪るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平(たいら)かなるは人なり云々・・・」

更に、天界とは歓びの心、声聞とは仏の教えを求め真摯に学ぶ心、縁覚とはひとりひたすらに悟りを求める心、菩薩とは自らも悟りを求めると同時に他をも導こうと勤める心、仏とは慈しみ深い円満な心、この様な心が、私たちの心の内に存在するというのです。

更にこの心の一つ一つは互いに具わり合っていると言います。それは地獄の中にも、「仏の世界」〜「菩薩の世界」までの、他の九つの世界が内在し、また、仏の中にもまた、他の九つの世界が内在するというのです。つまり、地獄界から、仏界の全てが、互いに具わりあっていると言う事で、それを合わると、百の世界が心に存在する事になります。

そして、その百の心一つ一つに、「十如是(じゅうにょぜ)」という真実の十の有様、「実相(じっそう)」があるといいます。その実相とは、真理に照らし合わせると、包み隠す事の出来ない言うなれば、「ありのままの姿」というのがあるというのです。それは、「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」といいます。

「氷」を例に挙げ説明したいと思います。「相」とは、人相、手相と言われる様に、「面(おもて)外側に現れる姿」をいいます。氷は透き通った透明の姿をしています。「性」とは、「そのものの内側の性質」であり、氷は冷たく、暖まると解ける性質をもっています。「体」とは、「姿と性質とを合わせもつその実体」のことです。次に「力」とは、これら「相・性・体」を併せ持つ「力」の事です。透明で冷たい氷は冷やしたりできる力を持っています。そして、実際にこの内在する力が外へ向かって影響した時、何かを冷やす事が出来ます。その「外に現れる作用」を作(さ)といいます。「因」とは、それら全てが事の発端の「原因」となるのです。その「相〜因」をもちあわせた氷という存在は、「縁」によって熱いお茶と出会った時、その「果・報」が現れます。氷は解けて水となりその姿形を失い、熱いお茶は、冷やされ冷たいお茶となります。「本末究竟等」とは、これら全ての条件は如何なるものが如何なる状況に於いても、縁を結んだその全ての存在は互いに「始めから終わりまで等しい」姿を現すという事です。氷は解けて無くなりその全てを失い、暖かいお茶は冷やされ冷たいお茶となる。互いにその姿は変化したものの、暑い夏に麦茶をぐびぐびっと飲みたい私にとっては、消えた氷の存在も、冷えたお茶の存在も双方、とても有り難い存在となるのです。この様な状態をさして「本末究竟等」というのです。この十の真実の有様が百の心の一つ一つに具わっているというのです。つまり、百界に十如是が加わり「千如是」となります。一方私たちの住む世界は、大きく三つに分ける事が出来るのだと言います。「衆生世間」という、「私たちの生きる人間社会の集団」、「国土世間」という「この地球の国土、大地」、「五蘊世間」という「個人に存在する物質と精神」先の千如是にこれら全てをかけ合わせると、私たち人間の一瞬の心にはおよそ「三千の世界」が存在するという事になるというのです。縦横無尽に折り重なったこの果てしない世界が、ほんの僅かな、この一念に具わっているのだと言うのです。

これを天台大師は「一念三千」と申されました。これら心の世界を譬えて言うならば、まるで幾重にも重なる立体的な万華鏡の様な世界であります。

これほどまでに、自らの一念が、他の心の内側の世界そして、外側の世界、石ころから、植物、大地、更には、果てしない宇宙の果てまで、はたまた、ミクロ、マクロの世界の量子にまで、生物、無生物に関わらず、ありとあらゆるものに影響し、そして、影響し合う関係にある事。もし、あなたが、この天台大師の「一念三千」の真理を信じるならば、あなたの一念は、とてつもなく大きな影響力とエネルギーに満ち満ちたものとなるでしょう。

逆に考えるならば、これほどまでに、自らの一念が他に影響を及ぼすならば、今、何を想い、何を考えるのか、その一瞬の心が、重大な責任ある一念となり、自らに迫ってくるでしょう。

この様に考えると、「意識」が、量子(物質)に何らかの影響を与える事を実証したバーニングマンでの実験結果は、私たちの「こころ」に科学的に迫る画期的な実験だったと言う事が出来るでしょう。

とはいうものの、私たち現代人は、その心から生じる苦しみから、どうにかして逃れる事が出来ないものかと、あの手この手で、心やこの世の全ての出来事の不思議を解明しようと試みます。医学に於いては、新たな病原菌や、死に至る病とその原因を探り突き止めようと躍起(やっき)になっています。

 どんなに科学や医療が進歩しても、心を離れて人は生きていく事が出来ません。たとえ科学の力によって、肉体的に不老不死を手に入れたとしても、新たに不老不死による心の苦しみが生まれるでしょう。

或は、バーニングマンでの実験の様に、心やその意識の持つエネルギーを科学的に解明しようと試みたところで、その心をコントロールし、意のままにする事など不可能でしょう。

心は果てしなく広がり続ける広大な宇宙のようなものであります、心を意のままにする事は、言ってみれば、この大宇宙を意のままにする様なことなのです。

そして、このどうにも捉えようの無い心こそ、あらゆる苦しみを生み出す源なのです。では、この心から生じる苦しみに私たちは、どのように向かい合えばよいのでしょうか。

その大いなる智慧が仏法には説かれるのであります。

 天台大師は『摩訶止観』の中に「仏法は海のように広大であり、信ずることによって、仏法に入る事が出来る。信は仏道の源であり功徳の母であり一切の善法はこれによって生ずる」と説かれておられます。仏法を信ずる一念、それは私たちの持つ心の世界において善なる一念の源であります。その様な人としての善き意識と生き方から功徳が生まれ、その功徳により、そこに存在する苦しみをありのままを受け入れることの出来る心を養う事ができるということでしょう。

さればこそ、日蓮聖人の仰せになる「一念三千の法門は、但、法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」とのお言葉を信じ生きる事が、善と悪とを見誤る、私達にとりまして最前の生き方であり、南無妙法蓮華経を信じ念ずることと、その一念を持ち続けることこそが一切衆生を救わんと御誓願なされ、尊い大慈悲を注がれたお釈迦様の一念とひとつになることに他ならないのです。そして、だからこそ「一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」との日蓮聖人のお言葉は、邪(よこしま)な心に翻弄され、自らの中に涌き出でる折々の一念に対して満足に責任を取ることも叶わず、幼稚なままに自我を生きる末代の愚人にとって、何より心強いお言葉となり心に響くのであります。

 

ひさかたの 天にかかりし わが心

      遠の因果も いとあわれなり

 

鷲嵐学林
じゅらんCO

http://jurancop21.net/ 

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