昭蓮寺Day`s19

昭蓮寺Day`s

 

戦後70年、広島〜知覧〜の旅

 

南無妙法蓮華経

 8月15日、お盆の棚経を終えて疲れた様子の父が、ステテコで居間のテレビを見ていた。それは、毎年この国で繰り返される、戦争を振り返る番組だった。今年は、戦後70年の節目ということもあり、どのチャンネルを回しても、その類の特番が組まれていた。父が見ていたチャンネルでは特攻の生き残りのおじいさんが、その当時を振り返り語っておられた。その時、父は、急に僕の方を見てこう言った。

 

「知覧、行ったことあるか?あそこ行くと、ホント、涙がでるぞ・・・」

 

 その言葉を放った時の父の目があまりにも真剣で、今まで見たことない顔つきだった。その場所を思い出すだけでも胸が詰まるのか、なんだか、そんな様子だった。

そんな出来事に心動かされた僕は、知覧に行くことを決めた。

 8月23日午後、子どもたちを車に乗せ出発した。向かう九州地方は、台風15号が待ち受けていた。雨雲はまだ遠く東シナ海をゆっくりとした速度で北上していた。23日は、広島の山中でキャンプをすることにした。到着したのは、午後九時頃、ちょうど西の空に月が沈みかけたころだった。テントを立て、月の落ちた夜空を見上げると、そこには淡く流れる天の川が天ががり、幾筋かの流れ星に感動した。やっぱり、地球は丸く、僕らは、こんなにもちっぽけで、ケシ粒に等しい命。大宇宙の時の流れに比べれば、それは、瞬きにも満たない瞬間をほんのすこしだけ生きている。そんな風に思うとなんとも言えない気持ちになった。それでも、そんなケシ粒にも満たないような地球では、依然として人が人を殺し合う戦争が止むことはない。なんとも悲しい現実である。

 翌24日は、広島の山中から車を走らせること30分。広島平和公園に到着した。そして、原爆死没者慰霊碑の前でお題目をお唱えした。その後、平和記念館を拝観し終えたあと、ちょうどお昼に差し掛かったので、元安川の橋の袂にあるカフェのオープンテラスで食事をした。ピザを食べながら、70年前に思いを馳せた。

 原爆は、この頭上600mのところ炸裂した。晴れた夏の日の朝が、一瞬にして地獄と化した。真っ黒に焦げた死体と、皮膚がただれ剥がれ落ちボロ雑巾のようになった黒焦げの皮をぶらぶらとさせながら、水を求めて歩く人。呻き声や泣き声が溢れ、赤剥けになった死体は、次々と元安川を流れてくる。そう思うとこんなところで、ピザなんか食べてる場合じゃないと思いすぐにそこを後にした。

 戦後70年、世界は一向に武器を捨てる覚悟ができていない。今だ、世界の何処かでは戦争があって、核兵器も廃絶されていない。それに、福島の原子力発電所では大事故がおきて、放射能が沢山漏れて、今でも海に空に流れている。ここで、亡くなった30万の人々に、まだまだ、顔向けできるような真の平和はおとづれていないのが今の世界。まだまだ、こんな世界では犠牲者は成仏することはない。

 翌25日は、いよいよ、この旅最大の難関台風15号との対面だ。九州で台風と交差する目論見でいた。しかしこのまま鹿児島に向けて進んだら、暴風雨の中に突っ込んでしまう。それはあまりにも危険すぎるだろうということで、少し台風の進路を避け、この日は、大分に宿を取ることにした。そして、あわよくば、杵築市の延隆寺のお上人様にも会いたいと思った。お上人様とは学生時代からの友人で、生年月日が同じ、1980年の5月22日生まれなのである。同じ日蓮宗のお寺に九州と愛知で場所は違えど、同じ日に同じ宿命を持って生まれた。なんとも不思議な御縁を感じずにはいられないお上人様である。検索してみると、そのお寺のすぐそばに、良いお宿があり、電話をすると部屋も空いているという。本当は、1年間貯めた500円玉での貧乏旅行は、テントを張っての野営が基本。お宿に一泊は少し痛手だと思ったが、台風だからしかたがない。お上人様に連絡すると、明日は朝から予定があるとのこと、わざわざ、その予定を少し遅らせてもらい会う約束をした。

 翌朝、窓に打ち付ける雨とものすごい風の音で目が覚めた、外は見たこともない雨すじと暴風が吹き荒れていた。朝、お寺に伺う予定だったが、この暴風雨では、外にも出られそうにないと思い電話をしたところ、お上人様の予定は、この台風の影響で大幅に予定変更となったことを知らされた。ちょうどチェックアウトの10時頃には、すっかり風も治まり、お寺に向かうことができた。風神様のお陰で、九年ぶりのありがたい時間を頂戴し、再会を果たすことができた。そして、日本の政治のこと、宗門の現在・未来のこと、お題目をどう伝えていかねばならないのかということ、様々話をした。ここにずっといたい気持ちになったが、そうはしていられない、知覧まではまだ400㎞もある。名残惜しい気持ちで延隆寺を後にした。

 途中、宇佐八幡がそのお寺から15分ほどの距離にあることを聞いていたので立ち寄ることにした。一度は、お参りしたいと思っていた宇佐八幡にお参りできたのも、これも仏のご縁なのか。切実なる思いを自我偈に込めて、天下太平国土安穏を祈りお題目を唱えた。思い新たに、一路、知覧へと再出発。相変わらず、九州自動車道は、台風の影響で不通のまま、下道で八時間あまりかけ、鹿児島県南九州市に到着した。妻も子も寝てしまい静かな車内、風で木々が散乱した台風の爪痕の残る夜道は、長く感じられた。70年前、真っ暗な海の上を一人戦闘機に乗り込み、何時間もの間、睡魔と闘いながら操縦桿を握ったであろう、その時の若者を想った。市内に入った頃には、時計は午前2時を回っていた。しばらくして停車した信号の手前にコインランドリーを見つけ、三日分の洗濯物を洗濯機に放り込み、今夜はそこで車を止め寝ることにしたが、長時間の運転で覚醒した頭では眠る事もできず、携帯で知覧特攻平和会館のホームページをみていた。

 すると、「水曜休み」との掲載があり愕然とした。なんと、26日の今日はその水曜日なのである。一瞬途方に暮れ、僕は何のためにここまで来たのか、頼み込んで無理やり入れてもらうしかないか。いや、なんとしても入れてもらうしかない!と、思ったその時、※印に、「8月は水曜日も休まず開館します」、との記載を見つけ、ほっと胸を撫で下ろした。ほっとしたのか、いつの間にか眠りについていて、朝6時頃、無理な姿勢での車中泊で背中の痛みに目を覚まし、洗濯物を取り入れて、朝の炊事ができる場所を探して市内をうろうろした。結局、これといった場所も見つけることができず、特攻記念会館に向かうことにした。

 看板が見えてきたと同時に、会館に続く坂道の両脇に無数の灯籠がその入り口まで並んでいた。この灯籠が何を意味するのか。物言わぬ灯籠が既に涙を誘った。そして、近くのグランドに車を停め、お湯を沸かし朝食の準備をし始めたころ、雲の隙間から朝日が眩しく照らし始め、子どもたちが順に起きだした。公衆便所に行き歯を磨き、朝食を済ませ会館の開く9時を待った。

そして、その時が来た。

 会館に入るとそこは、壁一面に、特攻で亡くなった若者達の写真で覆い尽くされていた。筆舌に尽くしがたいとはこのことである。その空間に漂う深い悲しみは、あまりにも平和な現代に産まれ生きてきた僕の心を刳った。

 遺書に残された、父、母、兄弟、姉、妹、家族に宛てたその言葉には、深い愛と優しさと、人を思うその思いの深さが満ち溢れていた。そして、自らの覚悟のなさを恥じた。

 この国とそして愛する家族を護るため、命を投げたその覚悟には、様々な思いが満ちていたことだろ。本当は死にたくないとも思っただろう。この国の為に、大切な家族を護るために死ぬのだと思っただろう。はかりしれない、悲しみや苦しみを乗り越えて、それでも自らの死と向き合い、何かを信じてその生命を投げ出した。彼らが信じたもの、それは一体なんだったのだろう。

 

『生もなく 死もなくすでに 我もなし 泣かざらめやも ますらおの道』

 

 こんなにも、清々しい思いで、命を捧げる。

 こんなにも、素直に家族にその思いを告げることができる。

 こんなにも、死を、本当に覚悟した人の生命は輝くものなのか。

 そして、こんなにも、戦争とは悲しいものなのか。

 

 こんな悲しみや、苦悩を二度と味わうことのない世を目指すことが、目的なのか。悲しみや苦しみをありのままに受け入れ、決して、そこで命を投げ出した若者に、ただ憐憫(れんびん)の情を抱くだけではなく、その命がその時選んだ、その道を、心深く大切に受け止め、その思いと悲しみ苦しみを、そのまま、ありのままに、次世代に伝えていけばよいだろう。

 答えは、その心に、どうするべきか、どう生きるべきか、各々の心に、自然に涌き出でてくるだろう。そんなふうに思った。

 

 その後、隣の観音堂にてお自我偈とお題目を上げたが、また胸が詰まった。

 僕は、哀絶の思いにくれていたが、子どもたちはそんなこと関係なしで、元気いっぱいに、特攻隊の銅像の前で水遊びをしてまたもや、泥だらけになっている。本当に子供は無邪気でその姿に救われた。

 そして、併設する公衆浴場へ行った。お風呂からあがり、みんなでアイスを食べていると、老人が次々に出てきた。僕は、その中の一人の老婆に、こんにちは。と話しかけ、特攻平和会館に来た経緯を話した。すると、その老婆は、ゆっくりとした口調で話しだした。私は、その特攻に行く飛行機を手を降って見送ったと、涙ながらに話をしてくれた。もう一人のおじいさんは、その頃のことをよく覚えていると、いろいろお話をしてくれた。終戦間近の知覧の飛行場には、既に飛行機も少なく、上空を飛ぶアメリカの艦載機から、日本軍の飛行機を沢山に見せるため、飛ばない木造の飛行機を並べていて、実に情けない有り様だったという。終戦間近の日本にはもう既に戦う力は残されていなかったのだ。

 そして、1945年8月15日正午、昭和天皇は、ラジオを通じ日本の降伏を国民に伝えた。満州事変から実に十五年もの長きに渡る、戦争の時代に終わりを告げた。

 

 戦争は、ありとあらゆるものを奪う。

 戦争は、なにもかも奪う。

 戦争は、死ぬる勇気を肯定し、生きる勇気を否定する。

 戦争は、すべてを奪う。

 

 広島・長崎で亡くなった数十万の命も、特攻で亡くなった数千の命も、世界で亡くなった数千万の命も、真の意味でその生命の成仏を果たすには、世界から、すべての戦争がなくなり、すべての核兵器がなくなり、すべての軍隊と武器がなくなり、本当の、本当の平和がもたらされるその日まで、僕らの慰霊の旅は終わらない。

 

 僕ら、法華経を信じるものは、いかなる人の心にも、仏の育つ平和の田んぼあることを信じる。その田んぼに、かつて植えられた、その仏の種を、いつしか自らの手で焼いてしまい、もう二度と芽を出すことがないだろうと思われた。その戦乱多き末法の時に現れた一筋の光明。

南無妙法蓮華経。

 そのお題目という仏の種を、心の田んぼの奥深く深く、もう一度植え直し、その種が芽吹き、そして、その白蓮の華を大きく開き咲かせるその日まで、永き万年の旅は続く。

 そして、いつの日か必ず、人々の心に久遠の平和がおとずれることを信じて疑わない。

 

 『大火に焼かるると見る時も 

          我が此の土は安穏にして 

                   天人常に充満せり』

 

 桜島は、その日も真っ白な雲の傘をかぶり、静かに、ただひたすらに、僕らの心を見つめていた。

 

 8月28日、午前1時30分、無事に家に着いた。

 僕の、戦後70年の夏は終わった。

 

 

    哀愍の 念いだけども 足らずして

            ただ法華経に まかすのみなり




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