人間は死なない

人間は死なない

 

人間は、一度も死なない。

仏教の智慧は、生きることと、死ぬことを、超えるところにある。

生まれもしなければ、死ぬこともない。死ぬこともなければ、生まれることもない。始まりもなければ終わりもない。これを無始無終という。

釈尊のさとりと、真実の智慧は、久遠にそこにあり続けるこの寿命の事を言う。

この寿命は決して釈尊だけの特別なものではない。

私たちの寿命がそうだという。

さらには、人の心も、他人と全く隔たりもない。しかも、全く知らない人の思いや心も法界に遍満していて、全く隔たりがない。

身は別々なれども心は一体で、肉体の生死は一如である。

その身と心に宿るの「たましい」である。

しかし、このことは、現代人には、非常にわかりにくい。

なぜなら、死んだら終わりだと思っているからだ。

あまりにも、「たましい」の実在とは、ほど遠いところに来ている。

 

もしあなたの両親が亡くなり、今両親を思い出すことがあれば、あなたの眼の前に両親の実在がある。

一方、天涯孤独で人知れず白骨となった人は、死んでも尚、死なずに、今でも、私の存在に気づいてくれる人を探して、あなたの眼の前にたましいとして存在している。

さらには、生きている時と同じように「たましい」が成長し、気づきを得ることもある。そして、自らの意思を持って、新たなる命にその「たましい」が宿る。

 

今、心配なことは、葬儀に関して、家族葬とか、直葬とかで人間関係を断ち切っていく風習が出来てきた、そこには社会的、政治的幾多の問題の背景がある。人は二度死ぬ。肉体の死と忘れられた時である、などと言い切る、あまりにも現実的、物質的発想の日本人の精神的荒廃の闇に目を向けないことである。

忘れられた時にも一度死ぬなら、精々2、3代で多くの人は二度目の死を味わうことなる。幾千幾万の命の生死の上に、今の私の命がある、決して忘れていませんと、その様に生きることである。だから天涯孤独で死にゆく人の命の上に今の私の命がある。その様に思える精神的豊かさを忘れている。

二度の死を迎えることはない。

法華経の智慧と慈悲は、死の向こう側にある。

死の向こう側に回る慈悲とは、生きるものが、自らの悲しみよりも、一人で死にゆくその人の寂しき心に寄り添うことである。決して死んではいません、私のすぐそばで生き続けていますよ。と死にゆく人になげかける。

葬儀を派手にする必要はもちろんない。

近所の人に手伝って頂きながら交流を深めていくことも、もちろん大事だ。

その前に交流を深められるだけの社会的共通資本が、根本から崩壊しつつある今、その政治的問題を見つめて、その問題を解決する手立てを模索することである。そして、その現実を受け入れた上で今できる事を思案しなければならない。

 

葬儀屋さんに任せっきりの僧侶が多すぎる。現代において窓口である葬儀屋さんは、僧侶よりもダイレクトに精神的崩壊の現実的危機を実感している。

檀家制度も崩壊し、釜の底はもうすぐ抜ける。

現世利益の祈りやヒエラルキーに守られた世界も、もうすぐ崩壊する。

 残る既成仏教教団に課せられた役割は何か。

生死に向き合うことであり、苦しみを小手先で解決するよりも、カルマを糧に信仰することであり、導く側ではなく、導かれている感覚を実感することである。

所化もって同体を実感することである。

方便と嘘がごちゃまぜになっている。そもそも、我ら凡夫が、方便などと、言ってもつまるところはペテンである。

生死そのものが、方便であるのに、それ以上の嘘はいらない。

祈りは現実に向き合うことである。いのりでありのままを受け入れ、いのりと信力で現実を突き動かす。

少なくとも死はお別れだけではない。自らの死を自覚すると同時に、死様を学ぶことである。死に方は、生き方である。

亡き人の「たましい」の実在に気づく機会である。

つまり私たちに大切なことは、亡き人と向き合い、亡き人との「たましい」の実在を信じ、気づき、人は死なないという、魂の交流と魂の絆を今、正直に築いていくことである。

亡き人と向き合うことは、生きる人と向き合うことである。

素直に、真面目に真剣に、向き合い続けることができるには、その原動力となる無限の信仰心が必要である。

南無妙法蓮華経

立正安国、世界平和

脱原発を祈ります。

 

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