昭蓮寺Day`s

2013年

12月

04日

昭蓮寺Day`s6

井戸端会議6      

 

短い秋が通り過ぎ吐く息の白さに、冬のおと連れを今に感じながら夜空に浮かぶオリオン座を眺めると、超新星爆発が間近に迫るといわれるペテルギウスの揺らめきが一層まぶしく輝きを増した様に感じられます。 夜空に輝く星々の中には、地球にその光が届く頃、既にその存在は無く、光のみが届く星も存在します。それに等しく人の命もその星々の様に生きた証(あかし)を、死後もなお私たちの心の奥底まで届けるものなのかもしれません。

 

先日、ある方から、こんな質問がありました。それは「月参りとはなんですか?」という問いでした。「月参り」とは、おもに東海地方から西の地方に残る毎月、月命日の日にお檀家様のお仏壇に先祖供養のご回向に伺う習慣のことです。その方は、「月参り」と聞いて「お月様を見にでかけること」なのかな?とこんな印象を持たれたそうでした。「月参り」というなんとも面白い表現にすこし想像力をかき立てられた私はこんな事を思いました。

それは、生きとし生ける者たちの命と命とはまるで、互いに月と太陽のような関係であるということでした。

人は人によって照らされ初めてひかり輝くことの出来るものです。それは月が太陽に照らされて光るようなものであり、同時に月を照らす太陽の様な存在である思うのです。私たちはお互いに月であり太陽であるのです。照らし照らされ喜びを感じ生きるのが人だと思うのです。

 

そしてそんな感覚は、生まれながらに具わっているものである事を子供たちから教わったこんな出来事がありました。

 

 ある晴れた日の朝、学芸会の振り替え休日の娘と朝参りをしようと支度をしていると、眠そうな眼をこすりながら、もうすぐ5歳になる息子が起きてきました。休日の姉を恨ましそうに見る姿に、ふと、私の遊び心が動き、「朝のお勤めに参加するなら今日は、幼稚園を休んでもいいが、どうするか自分で決めなさい」と伝えました。彼は嬉々として「おまいりをする」というので、さっそく三人で朝のお勤めをする事になりました。

夏の修養道場で読める様になったお経を自慢げに読む姉をよそに、いつもならお勤め中にふらふらと席を立つ息子もこの日は約束どおり、しっかりと座ってまだ読めないお経本をぱらぱらと捲っておりました。

お自我偈を一巻読み終え、お題目を少々お唱えする頃には、これなら僕も唱えられると嬉しそうにお題目を上げていました。最後に「おじいちゃん、おばあちゃん、お母さん、後ろに座っている二人、そして、生まれたばかりの、双子の妹と弟の健康を願い、二人にちゃんと理解できるよう、やさしい言葉でご回向をしました。鐘を三打打ち鳴らし、振り返ると、いい笑顔の二人が相変わらずちょこんと座っておりました。

 そんな二人に私はこんな質問をしました。「どうでしたか?なんだかすがすがしい、良い気持ちになりましたか?」と訊ねますと、二人とも、う〜んと首をかしげていましたので、すかさず、「きこちゃんとゆうごくん(双子の妹と弟)が元気で大きくなります様に、っておまいりしてどうだった?」と訊ねるました。すると二人はすぐさま、二人は満面の笑みを浮かべ「嬉しかった!」と答えたのでした。私はこの時、ハッとさせられました。何故なら二人は自分の名前も読み上げ祈ってもらった事を知っているはずです。しかし、その事よりも、妹と弟の事を祈ってもらった事を嬉しく思って素直に言葉と表情に表したのです。人は人の為に生きる事が何よりの喜びです、なんて、理屈で説明して理解できる年ではありません。こうして朝早くからおまいりをしている意味も解りません。もちろん私利私欲的な願いなど何もありません。そんな小さな二人が、自分たちの妹や弟のしあわせを祈り願っている事が私には感動であり、喜びでありました。

お題目を唱える事によって人と人が互いに照らし合う、そして、その様なお題目の祈りこそが我が心を磨くのではないかと思うと胸が熱くなりました。

 私たちはこの人間社会の中でお互いに様々な人々と関わり合い、照らし照らされ、祈り祈られ生きています。とは云え、出会う人は常に自分にとって善い人ばかりではありません。起こる出来事も、善い出来事ばかりでありません。それだからこそ、時に新しい自分に出会えたり、磨かれ、成長して光り輝く自分に出会う事も出来るのです。

 

お祖師様は、『種種御振舞御書』に次の様に仰せになられました。

「釈迦如来の御ためには、提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに、人をよく成すものは、方人よりも強敵が人をば、よくなしけるなり。(中略)日蓮が仏にならん第一の方人は、景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。」

あ釈迦さまにとっては命を狙った提婆達多こそが、第一の恩人でありました。日蓮聖人にとって自らが仏になる為には、日蓮を殺害しようとした東条景信や良観、道隆、平左衛門尉頼綱こそが第一の味方でありました。

まさに、お祖師様をして真の法華経の行者たらしめたのは彼の強敵に他なりませんでした。

 

法華経には「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」とあります。末法の闇世を照らすその光明は七百五十年の時を経て、今なお人々の心の闇を照らす大慈悲となり法界に生き生きと溢れております。

 

お祖師様が命を惜しまず後の我々の為、良薬としてお残しになられた妙薬を服し、その光に触れて、心の苦しみを忽ちに止どめ、安穏のお浄土に常住する事を願わずにいられません。

 

未だたいした困難や強敵に出会う事すら出来ない徳の薄い凡夫の私が今ここにいます。

これからも、出会う人、起こる出来事、一つ一つに法華経の光明を当て、精進に精進を重ね、お題目様と共に生きることが出来ればこれに過ぎる喜びはありません。

 

日月の 妙の光明涌き出し 

結ぶ寒水 珠となりけり 

 

JURAN.12月号、掲載記事(http://jurancop21.net)(http://jurancop21.net/swfu/d/auto-Qg9vhu.pdf)

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2013年

11月

05日

昭蓮寺Day's5

井戸端会議5

 

一雨一雨、秋が深まり、朝夕は肌寒くなりました。この頃になると、月は輝きを増して、薄らと雲のかかる月夜には、月光が輪になり虹色に光ります。

月を眺め、手を合わせ祈ると、その向こうには自然と忠安寺の三日月和尚のことを思い出します。今月も、井戸端会議のお時間がやって参りました。それでは参りましょう。

さて先日、月回向に伺ったあるお宅で、いつもの様にお茶を出して頂くのですが、待っているその僅かな時間にある小冊子を捲っておりました。普段から、私の糞色の頭陀袋の中には、お太鼓、教箋、要品、御書類集、暦、香等々の七つ道具を忍ばせてあります。その中の一つに、岐阜県の関ヶ原の合戦跡地からほど近い、垂井町(たるいちょう)にあるNPO法人「泉京・垂井(セント・タルイ)」から発行の小冊子で、所源亮さんの書かれた『原発と日本人』が肩を並べて入れられています。

源亮さんの母(当時・85歳)、所やなぎさんの貴重な戦争体験や広島・長崎における原爆投下、その体験から生まれた核への不安と疑問、それゆえに今日まで続ける事になった数十年に及ぶ反原発の運動がありました。ある時やなぎさんは、東日本大震災によってひきおこされた、福島原発核爆発と、それに伴う放射能が垂れ流しの情報を頻繁に見聞きした事で、すっかり心身ともにに疲れてしまわれました。やなぎさんが何に疲れたのか?と言えば世間様が口を酸っぱくして言い続ける原発と放射能の危なさが、どれほどのものかいっこうに見えてこないからでした。そこでどれほど危ないのか、数字にしてくれないかとご子息に頼んだのです。と申しますのも、ご子息の源亮さんは一橋大学イノベーションセンター特認教授をなされていましたので、その方面には明るい方だったからです。そして、ご自身の母の為にと、一体どれほどの放射能がまき散らされたのかを、計算し解りやすく解説なされました。それが「原発と日本人」という小冊子なのです。この中で、源亮さんは、政府発表の7,2億テラベクレルの放射能漏れがチェルノブイリ原発事故の約138倍もの放射能であることや、日本における食品の放射能基準値のあまさを厳しく指摘し、日本の近未来はチェルノブイリを遥かに凌ぐものである事をシッカリ、国民全体が正しく認識すべきであることや、自分を守るのは国家や政府ではなく自分自身であると気づくべきだと述べられました。

 

実に内容の濃いもので他にもここで紹介したい事がありますが、ここでは、その始まりに書かれた「我々は星の子」という言葉にスポットを当ててみたいと思います。

源亮さんは、「地球は46億年前に太陽とともに宇宙の塵からできました。宇宙の塵は、太陽のより大きな星々がその一生を終える時に起こした超新星爆発と星の内部の核融合で作られた元素がその源です。我々はその宇宙の塵から生まれました。ですから我々は星の子です。」と述べておいでです。

 

この「星の子」という表現を目にして私は直ぐに、法華経に説かれる、「一念三千」の教えのことを思い浮かべました。

そこに説かれるのは、私たちの一念に、山川草木を含む大地・国土とその国土に栄える文明社会、そしてそこで生きる私たちの心の動きやその振る舞いの全てが、ほんの僅かな一念の中に全て含まれるという真理であります。

また、それら全て網の目の様にが互いに関係し合い、影響を及ぼし合っているということです。しかし、国土という物質としての地球全体や大地のマントルの動きや地殻の動きまでも、私たちの一念に含まれているという真理を観心し実感としてとらえることはとても困難な事であり、そして信じがたい事であります。

それと比較すれば科学的実証に基づいた「我々は星の子」という表現は現代人にはしっくりとくるものです。超新星爆発から宇宙に飛び散った塵が137億年も長い時間をかけて、衝突を繰り返し集まり、四十六億年前に出来上がった星の一つに地球があり、人間を構成する元素は、96%が有機質の酸素、炭素、水素、窒素の四つの物質で、残りの4%が、主にカルシウム、リン、硫黄、カリウム、ナトリウム、塩素、マグネシウム、鉄、等、56種類の無機質で構成されていて、更には、 地球上の生命を含むすべての物質は、たった110種の原子の様々な組み合わせでできいるということ。

 

更に驚くべき事は、ストロンチウムやセシウム、ゲルマニウム、ヒ素や水銀まで、本来毒物とされる物質や放射線を出していた物質までもが人間構成元素に含まれ、 タンパク質は炭素、水素、酸素、窒素、リン、硫黄の原子から構成されたアミノ酸で、炭水化物は主に炭素と水で出来ているということ。

その中の有機質である、酸素、炭素、水素、窒素は、体内の四菩薩的要素として存在し、生命にとって必要不可欠な「水」は「二つの水素」と「一つの酸素」で出来ているということ。

これらの事は私にはまるで、釈迦牟尼佛と多宝如来が南無妙法蓮華経の宝塔に寄り添うておられるように思えたりします。

 

およそ全ての生命あるものは、それらの物質の仕組みや構成など何一つ理解せずとも、自然にその働きである因果の功徳を譲り受け、今、げんにこうして生かされています。

 

眼には観る事の出来ない、様々な元素が、呼吸や食事といったコントロールできる有機的働きと、食欲や心臓の鼓動といったコントロールできない無機的な働きにとによって、反復運動を繰り返しながら生命を支え続けているのです。

まさに「不可思議境(ふかしぎきょう)」であり「妙法・妙用」であります。

仏教と禅を欧米に伝えた鈴木大拙は、この「妙」の境地をシェイクスピアの「お気に召すまま」の台詞を引用して、次の様に表現しています。

「“O wonderful, wonderful, and most wonderful wonderful ! and yet again wonderful...” 」

「おー、ワンダフル、ワンダフル、最高にワンダフル、ワンダフル、更にもう一度ワンダフル・・・」

お祖師様は、『観心本尊抄』の中で、「妙覚の釈尊は我らが血肉なり、因果の功徳は骨随に非ずや。」と仰せになられました。

「星の子」ならぬ、「仏の子」と説かれる法華経の教えに出会い、そこに大信力を起こす時、最高にワンダフルな思いで、時空を超えた永遠の命に出会う喜びを得る事ができるのではないでしょうか。

 

 

ワンダフル 全ての命は ワンダフル

 
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2013年

10月

07日

昭蓮寺Day's2

南無妙法蓮華経

 

最近、四季が無くなった、という人がいます。

人の心に季節が無くなったのでしょうか。天候の不順もそうですが、一番の原因は、人間が自然と共に生きていなことでしょう。先日、まだ、緑色をした稲穂が膨らみ始めた秋の田んぼで、息子と鰌(どじょう)と田螺(たにし)を捕まえて遊んでいました。そこに初老の男性が物珍しそうに、「何をとってるんですか?」と話しかけてきました。鰌と田螺を見せてあげると、「ヘーまだいるんだね~。珍しいね。」とびっくりした様子でした。私は、「僕が子供の頃は、まだ沢山いましたよ。」と言いましたら、「そうだね、薬使うからね。」と、そんな会話を二言三言して立ち去っていきました。

その場所は木曽川から灌漑水路があり、そこから沢山の水が田んぼへと流れ込むその入り口でした。数年前のことですが当時は夏になると飼っていた、ノンという犬が散歩にくる度に、その田んぼの水たまりに飛び込んで、水をガブガブと飲んでいました。それが、あるとき、急な腎不全であっという間に死んでしまいました。

僕はその時、当時の犬の死因を、この田んぼに撒かれた農薬の影響が少なからずあったのではないかと考えたことを思い出しました。

田螺や鰌は、見るからに古代生物の生き残りのような、農薬にも負けない強い生命力を感じます。一方、人間はどうでしょう。

今年6月に公開になった映画に、絶対不可能と言われた無農薬でリンゴ栽培を成功させた、『奇跡のリンゴ』という映画がありました。主人公木村秋則さんは、妻の農薬による体調不良をきっかけに、当時、絶対に不可能と言われた、リンゴの無農薬栽培に挑んだ実話です。主人公の木村さんは、周囲農家に馬鹿にされ孤立していく中、借金はかさみ、娘の靴下に穴が空いていても、それさえ買ってやることができないくらいに、追い込まれ、街に出てアルバイトをしながら10年間を過ごしました。遂に諦め、自殺を決意し真夜中の山にロープを持って入っていきました。そこで、目にしたものは、月明かりに照らされ、実をたわわに実らせた、自生したリンゴの木でした。このリンゴが自らの人生大逆転の糸口となり、ついに無農薬の『奇跡のリンゴ』を実らせたというお話です。

実を付けたリンゴの木も奇跡ですが、木村さんの生き方も奇跡的です。

この木村さんがしみじみと語っておられます。

答えが何もない、参考になるものが何もない。すべてが、試行錯誤して失敗して得た答えなんです。その中で得たものは何であったか。それは、私の体に一個のリンゴも実らないってことがわかったんです。 畑に行ったら私の場合リンゴ畑ですから、リンゴの木が主役なんです。リンゴの木を自分の部下のように考えていた。それは違うんです。

本来一人で生きていく力を持っているはずなのに、肥料や農薬をあげないと、育たないように、本来の生命力が失われています。多量に与えられた、肥料の中から栄養を吸収するのではなく、自然本来の土に存在する栄養を、たとえそれが僅かであったとしても、吸収して、自分んの力に変化させていくこと、本来これができるんです。」

と。

一方、アメリカにモンサントという会社があります。おなじみの枯れ葉剤、ラウンドアップを作った会社です。この会社の、遺伝子組み換えの豆やトウモロコシは、専用の枯れ葉剤には枯れることがなく、更には、一度しか収穫できない様に遺伝子操作がされています。つまり、その年収穫した種を翌年蒔いても芽は出てこないのです。

此の様にして人間の生きていく上での本来の力、生命力を意図的にコントロールして、悪用すれば、兵器にもなりうる「種」を世界中にバラ蒔こうとしている人々もいるのです。

仏教には「仏種」と言うことが説かれますがそれは、本来私たちに具わる、生命力のことかもしれません。

つまり人は、この仏種の芽を開かせることをしなければ、本来の人間の持つ生命力には出会えないということです。そのためには、木村さんが10年もの間、本気でリンゴ本来の生命力を信じた結果の「奇跡のリンゴ」に出会ったように、仏道を求める人々は、誰もが自らの心の中に本来宿っているところの仏性を信じて本気でこれと向き合わなくてはなりません。その為には、仏教の哲学や教理を闇雲に頭に詰め込んでもいけないということであり、道理を弁えずに妄信することを避けねばなりません。

 

譬えば、ここに一つの種があります。何の種かは、わかりません。何の種かはわかりませんが、その行末は既に決められていて、外側から変えることはできません。

リンゴならリンゴ、ミカンならミカンにしか成りません。ミカンの種からリンゴが育つことはありません。

それらは、季節、気温、水、土、光、風、空気、昼と夜などに影響されながら、応分に芽を出し育ち実を結んでいきます。

ここで大事なことは、その種を手にした者が、その種の「性質」をよく分別し上手に育てる努力をするかということです。

お釈迦様はこの「仏種」の育て方の秘訣を『法華経』という教え中に残され、私たちにやさしく、解りやすくお説きになられました。また、『法華経』は「遣使還告(けんしげんごう)・使いを遣わして還って告ぐ」と述べられて、自らの滅後にあっては日蓮聖人という使いの人を遣わして「南無妙法蓮華経」と唱えることこそが、時宜を得た「仏種」の育て方だとお示しになられました。

そもそも、「仏種」とはすべての生きとし生けるものたちに本来具わった生命力そのものです。

 

人の人生は一度きりで、今の自分で生きられるのは後にも先にも今だけです。

すべては試行錯誤であり、そこには多くの失敗が横たわっています。

しかし、自分の内外からやってくるその失敗により新しい自分に出会えたなら、それは私たちの強い生命力を育むに違いありません。

 

JURAN 投稿記事より。

http://jurancop21.net/index.php

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2013年

9月

08日

昭蓮寺Day's1

 

南無妙法蓮華経

遂に自作にて開設した無料hp。

シンプルで使いやすそうだ。

 

こうして、双子のyugoやkicoを抱きながら、片手でタイピングするのにも少し慣れてきた。

今日は、福島から、義父義母が来ている。元気そうでなにより。

放射能の影響を心配しない日は無い。

 

自然界の法則から、逸脱した愚かな人間を思う今、妙とは何かを考えた。

 

妙とは。

 

妙とは、正に、この世のすべてが妙である。

法界にある、流れる時間や、存在するもの、全てが妙である。

 

例えば、鮭という魚は、秋になると産卵の為、川を遡上します。川で育ち、やがて海に行き暮らし、大人になり又、自分の生まれ故郷の川へ帰ってくる。

鮭のあの命の中に、迷わず元の自分の生まれた川に帰ってくる事もまた、妙であるが、更に妙な事がある。

それは、鮭の体の中に、蓄えられたリンという成分は、数千数万とう永い年月を経て、陸から海に流れて行った成分で、陸の植物にとっては無くてはならない成分である。

鮭は、このリンを海でしっかりと蓄え、川を遡上し、陸の川にこの大切なリンを自らの「死」をもってお返しする。

このリンを以って、川の藻が育ち、それをプランクトンや、鮎などの川魚が食べる、当に、絶妙のバランスで織りなす命の営みと循環が有る。

これを一つの妙という。

 

細やかな一日、数日、数か月、一年、数年、数十年、その命が生死を巡る速度は様々なれど、数万年、数億年、数億光年という、途切れる事のない時の流れと物質の循環が有る事を忘れてはならない。

その様な命の揺り籠の中に、連鎖する一縷の命として生きる人間もまた、妙の中に生きる存在である事は紛れもない真実。

 

しかしながら文明を謳歌する、私達人間は、資源を奪い合い、土地を奪い合い、紙幣の発行の権利を奪い合い、宗教の違いや思想の違いで対立し、戦争を繰り返し、命の大切な約束を破り続ける。

 

大切な生命の源の、大地、大海を汚染する。この様な人間の悪事も、又、大きな大宇宙から見れば、僅かなことの様に思えるが、ここ地球で生きる以上、私達は、この問題と向き合い、どの様に歩めば、この問題が解決でき、何を選択すれば世界の平和に繋がるのか、此の事について一人一人が気を配り関心を寄せていなければならない。

 

一念の中に三千の世界を具するという、この妙なる教えを信奉し実践する私達に課せられた使命は、その様に信じ行動すること。

 

「妙の一字変じて、台上の釈迦佛となる。」

南無妙法蓮華経

 

 

 

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南無妙法蓮華経

立正安国、世界平和

脱原発を祈ります。

 

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